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大沼法龍師と高森顕徹師の決定的な相異点

前回、ネット検索レベルの浅薄な情報に踊らされることなく、
自分で納得いくまで勉強して下さいよ、と強調した。
ネット情報もキチンと勉強しようとする者にとっては役に立つことがあるが、
そこから自分で調べないと「己の知識」にはなりません。
人の言うコトやネット情報を鵜呑みにしているだけでは、
いつまでも騙され続けることになりますよ、早く目を覚ましてください。

谷川徹三氏の件などは「雑学」の類でどうでもよいと私は思うが、
大沼師については伊藤師と並んで、高森師の核心に迫るものであるから
キチンと調べておく必要がある。でなければ何かモノを言うべきではない。

ところが、碌に調べもせず、例えば「若不生者の件はただの大沼師の味わいに過ぎない」
などと触れ回っている者があるのだ。不勉強も甚だしい。
伝統教学にも無知、そして大沼師の経歴もまるで理解していない者の妄言である。
そう触れ回っている者は、大沼師の十分の一でも宗学を基礎からみっちりと
学んだ時期があるのだろうか、甚だ疑問である。
当然の事だが、高森教学を丸暗記したものなど真宗学を勉強した内に入らないから
注意してほしい。


大沼法龍師については高森教学を解剖する上で要の中の要になるわけであるから、
手に入る書籍は揃えたし又入手できなかったものについては図書館で調べ上げた。
大沼師が雑誌に寄稿した文章にも可能な限り目を通している。
敬行寺にもお参りして生前の大沼師について色々とお伺いした。

ひとつのことを「知る」とはそういうことだ。

時間的な制約もあり「本格的な意味で」調べ尽くすというところまでは
全然いかないわけであるが、それでもこういった作業を通じて
いくつか見えてきたことがある。

その中から両師の際立つ相異点を一つだけ挙げる。

私は生前の大沼師の御法話録音テープを聞かせていただいた。
その一つは昭和51年2月16日の御法話でお浄土に遷化なされる2ヶ月前のものである。
(大沼師が還浄なされたのは、昭和51年4月17日午前5時ごろ)

手を引かれてようよう壇上に上がられたそうだが、
御法話ではゆっくりとした、しかし力強いお言葉。


「生るべからざるものを生まれさせたればこそ」
「大きな喜びがあるぞ、大慶心があるぞ」
「こころが爆発するぞ」



感動した。
そんな言葉では言い表せぬ。それほどの激震が走った。
聞いたものでなければとてもとてもわかるまい。

一通り話をされると、もうこれで、とご自分から壇上を降りられたそうだ。
元気な頃はたとえ話など枝葉も話されていたそうだが、
この頃はもう時間がないからと、正に「真仮の水際のみ」


一方、高森師はどうであろうか。
「高森先生は説き切って下さっている。聞き切らないのはみなさんの方だ」
何べん聞かされてきたことだろう。
しかし、その一念の水際角目が一体どこに説かれていたのか。
『高森師自身の言葉で』その真仮の水際を『説き切った』ことが
本当に一度でもあるのだろうか。
「教え」を聞き求めて駆けずり回って参詣してきたが、
帰命の一念はどこにあるかと狂いまわって求めたが、
その「教え」がどこにもなかったから、
どうにもしようのない絶望の果て、高森師から離れるよりなかったのだ。

「説き切っておる」というなら、たとえ5分でも10分でも
初めから終わりまで、正真正銘「真仮の水際のみ」を
ご自分の言葉で説き聞かせればよいではないか。
聴聞に参詣なされている方々はみなそれ1つ求めて参集しておるのだ。
なぜ、高森師にはそれが出来ないのか。

大沼師は還浄の2ヶ月前でお身体も相当に厳しそうな中、
手を引かれてようよう壇上に立たれて、なお、
正真正銘「真仮の水際のみ」説き切られておられたぞ。


もうこれ以上、言葉を重ねる必要はあるまい。
これこそが両師の決定的な相異点であると私は確信している。

あとは、それぞれ賢明な読者のみなさんがご自分で調べて
自ら「知る」ようになさればよいだろう。



大沼師御法話の様子
在りし日の大沼法龍師の御法話の様子



従仮入真
高森教学には大沼師からの剽窃が非常に多い。これなどもその一つ

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No title

大沼氏の著作を読めば分かるとおもうが、大沼氏は真宗の同行を「20願の人」と見ておられたようだ。高森氏とはその辺異なっているように見受けられる。ただし、大沼氏は真宗の同行には「光に向かって」進んでもらいたいと因果の道理を強調しているところがある。ここの部分を高森氏に親鸞会流宿善論として利用されてしまった。高森氏は伝統教学を深く研鑽してきたわけではないので、ただの聴きかじりでモノを書いているから伝統教学から外れてくる。そこを突かれると「論理のすりかえ」「ごまかし」しか対処のしようがなくなるのだ。伝統教学をよく知った上でそれを超えてモノを言うのとただの無知では一見似てみえるが、ちょっと叩いてみれば底の浅さがすぐわかる。紅楳氏に対してもそうだし、本尊論の山田行雄氏に対しても高森氏はまともな反論はできていない。「本願寺なぜ答えぬ」ではなく「高森氏よ、なぜ質問されたことに答えぬ」ですわ。

No title

法界p.136に『真宗に流れを汲んでいる人が、諸善万行の自力を
励んで往生しようと思わないから、第19願の自力雑行は捨て、
善本徳本の名号に帰した処は第20願の桁に趣入したのであるが
・・・』とあります。これこそが両師の決定的な違いと思われますが
どうでしょうか?
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